デザインを考える上でも重要な茶の湯の歴史をアバウトに振り返っておきます

茶の湯といえば古田織部・小堀遠州・片桐石州の3人を外せません

15世紀〜16世紀前半くらいまでの間で『茶の湯』は一気に形成され、秀吉によって『千利休』が茶の湯の結束点のように語られるようになり、茶の湯と茶道具の価値が一気に向上しました。しかし利休さんは侘数寄を好んでおり(参考:山上宗二記)、茶室の作りや道具類の収集に関して秀吉と意見が合わなかったとかなんとか。ドラマや映画になって有名なので詳細は割愛しますが、その顛末は歴史的にもドラマ的にも有名なあの利休さんの急逝へとつながるわけです。その没後、茶の湯を支えたのが漫画『へうげもの』で有名な古田織部(美濃)です。

利休さんの茶の湯が『整ったデザイン』の道具を好んで、小さな空間で僅かな光の空間演出をしたのとは対象的に、織部さんの茶の湯は『作為の上になお偶然が作り上げるデザイン』の道具を好んで、明るく開放的で落ち着いた空間演出をしています。ちなみに『織部茶碗』が有名ですが、史実上どのように関わったのか不明で、デザインが評価されたのは近代に入ってからです。おそらく、柳宗悦の『民藝運動』も大きく影響しているのだと思います。(参考:茶と美/講談社学術文庫)利休さんを師とする織部さんですが、この頃はまだ各々の好みを美とする傾向にあったのでしょう。織部さんもまた、利休さんと同じよう切腹を命じられ亡くなっています。

そして織部さんを師としたのが小堀遠州。遠州さんですが、近江の人です。静岡は直接関係ありません。(駿府城絡みではありますが)そして部類の庭マニアとして有名です。(気品と静寂が貫く綺麗さびの庭 京都通信社)『綺麗さび(綺麗さびの極み/新潮社)』の代表格みたいな烙印が押されていますが、この呼び名もまた近代です。柳宗悦がチラチラします。あくまでも当時の人の言葉ではないので注意です。近江の遠州さんですが、王朝文化を取り入れた武家茶道を組み立てた人で、今で言うアートディレクターのような存在の人です。室内空間から庭園、小物に至るまでその組み方を考た茶の湯を生み出しました。

遠州さんが亡くなったあとの茶の湯を引き継いだのが片桐石州。石州さんは石見国守(島根県)だったので、松江では今でも茶道が盛んです。利休さんの長男、道安さんの孫弟子に当たります。ちなみに道安さんは堺の千家家業を相続した人です。石州さんは将軍家の茶道具鑑定にも携わったこともあってか、大名家茶道が広がっていくきっかけを作った人でもあります。新たな茶の湯を開発するというより、利休さんの侘び茶を伝えていく段階に居た人でもあるため、千家とともに石州流として侘び茶を今日まで伝えてくれています。この流派で有名な人は、井伊直弼、松平不昧です。

三千家

利休さん後妻の連れ子で養子となった少庵さんという人に、宗旦さんという子供が居ました。この人が今日のよく質問される表千家・裏千家・武者小路千家の元祖です。宗旦さんの子供に、宗左さん、宗室さん、宗守さんがそれぞれ表千家・裏千家・武者小路千家となっていきます。

宗左さんの表千家が千家本家。宗室さんと宗守さんの裏千家・武者小路千家が分家となって合わせて三千家と呼ばれます。まちがっても3,000ではありません。宗守さんは一時家を出て京都、武者小路通にある塗師の家の養子となっていましたが、還暦前に千家の茶の湯に戻って官休庵を開きました。その場所が武者小路通にあったので『武者小路千家』と呼ばれたわけです。通りの名前なんですね。そして不審庵を開いたのが京都小川通の『表千家』。表通りに面しているからで、その裏手に今日庵を開いたのが『裏千家』となりました。


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