企業組織がIT化と哲学を取り入れなければならない理由

世の中はバーチャル化している

[バーチャル]
[形動]実体を伴わないさま。仮想的。疑似的。「バーチャルな空間」「バーチャルな体験」

デジタル大辞泉の解説より

企業経営を執り行う場合、頭の中で様々な判断をしている。ではその時、売上データーをエクセルグラフで見ていたり、原材料のデリバティブを長期/短期グラフで眺めていたり、生産歩留まり率を数値化して見てはいないだろうか。その行為を考えてほしいのだが、データーの出処こそリアルな現場だが、エクセルに数値が集まってきた時点で頭の中で考えている状態は[バーチャル]な状態とどれほどの差があるだろうか。

VRグラスを用いたバーチャル体験は、実際その場に居るわけでなく、[意識]が騙されている状態である。その結果、恐怖や驚愕といった擬似的な体験が身体に[汗をかく][心臓の動機が早くなる]などの影響を与える。その逆もしかり、心地よい空間、異世界で仲間と行動をともにするなど、安心感や冒険心などを掻き立てることで身体が反応する。

VRグラスで見る世界とエクセルシートを眺める世界では、現実に起こっていることと作られたものとで違うように思える。しかし[VRグラスで見る世界は作りものである]と意識が認識しているからこそ現実との差を認識している。

ではエクセルシートに集められたその数値データはリアルなものなのだろうか。自らが現場に出向いて集め、定量化したものであればリアルを疑いにくいだろうが、ではクラウド会計から提供された数値データはリアルなのだろうか?

ウェブ・サイトのアクセス解析データーのほうがもっと怪しい。そのデータはリアルなデーターなのだろうか。男女比やアクセス場所を記録しているが、そのデーターは作られていないいだろうか。このように考えれば、エクセルに集められたデーターを元に様々なことを考え、判断し、身体的に[行動]を起こす一連の行為がバーチャル体験と差別化することは非常に難しいことと推察できる。

バーチャル化された最たる企業はGoogleやAmazonだろう。どちらも実態をともなうデーターとして扱っていない。自動収集されたデータを元にサービスを拡充している。ここまで徹底していなくとも、行政機関もデーターの収集方法に[人]を使っているだけで、仕組み的には同じだ。もともと仕組みを作ることに長けている行政機関は、自動化ができない代わりに[人]をデーター収集のために使っている。行政企画を立ち上げる時に使われるエクセルデーターを見れば一目瞭然だろう。

このように、世の中は自動化・非自動化を問わずバーチャル化している。またここで注意しなければならないのは、エクセルを使っていてもいなくても手書きでグラフ化している状態だったとしても、バーチャル化は果たしていることである。電算化をしているのはバーチャル化の効率をあげているだけである。

バーチャル化の効率を上げることが最低限の土俵

1990年台から現代までの環境を比較し、経営を取り巻く判断材料の変化を考えてみると、最も変化の大きな部分はネットワークであることに気がつく。とくに2001年に発売されたwindowsXPとインターネット網の整備は、数値化に加えて現場の体感を伴うリアルな感覚の経営判断から、さらに細かくかつリアルタイム性を向上させた数値を元にしたバーチャルな経営判断が必要になってきた。

体感を伴うリアルな感覚の経営判断は、身体が及ぼす事ができる範囲、つまり五感が及ぶ範囲でしか判断ができない。とくに大きな影響を占める感覚は視覚であり聴覚である。少なくとも身体をその場に持っていかない限り得られない感覚であり、その範囲には自ずと限界と時差が生じる。ではバーチャル化とはどういう意味か? それは身体感覚を拡張することであり、現時点では視覚における拡張が進んでいる。リアルな感覚と同様、バーチャルでも身体感覚を伴わせることが現代経営感覚で必要になっているのはこうした理由である。

次に現場に移動しない分、今まで感覚に頼っていた部分の数値化・定量化が必要となる。人員がいる場合はこれを[人]に頼ればよく、それを実践しているのは行政機関である。多くの中小企業では[人]に頼ることは不可能であるため、ここにIoT機器などを導入し自動化させる。何の機器を導入し、何を数値化すればよいのかは企業の経営哲学に準じることとなる。闇雲に数値化してもノイズが増えるばかりで効率的ではないからだ。

こうした流れに関して「人間味のない方法」と判断してしまっては、もはや競争の土台にすら上がれない。時代は常に不可逆性であり、そもそもバーチャル化を望んで技術発展をしてきた以上、否定した場合どこまで遡ればよいのかを考え、新たな土俵を作り上げるくらいまでしなければ、市場から退場することとなる。

人間味の正体

データーを収集する方法は自動化させることも、人が行うことも可能だということは前記した。そのデーターを俯瞰・分析・考察するまでの過程において、バーチャル化された状態でも身体感覚を拡張し、あたかもその場に居るかのような判断が求められることも前記した。ではデーターに基づいて判断をする場合、人間味とはどこで発揮されるのだろうかを考えたい。

経営判断をするとき、たとえば売上推移データーから商材ごとの伸びや原材料費の調達方法、在庫数などを元に頭の中ではどこかで線引をする。その際多くの場合で数字を理由にして商材の扱いを判断したり、仕入先などを検討したりする。この作業は複合的にデーターを閲覧して考えているように見えるが、実は[しきい値]を探っているだけの[作業]に過ぎない。こうした作業は深層学習をさせたAIプログラムのほうが得意である。AIをやたら怖がる風潮があるが、逆にAIでは[しきい値]を探すことまでしかできない。では一定レベルまでAIプログラムに頼り[しきい値]を出してしまえば、自ら行う余計な作業時間を短縮できる。[しきい値]を求める作業を人間味がある作業だと勘違いしていては、本来下すべき大事な判断を誤る可能性が高い。

人間味が発揮されるのは[しきい値]を超えた部分である。データー上では著しく無駄と思われる数値が並んでいるが、数値化できない部分に可能性が秘められている場合もある。この数値化できない部分があるという認識を持ち、その部分を常に探す行動そのものが[人間味]である。その行動の基盤には自らの哲学が必要である。哲学は深層学習をいくら繰り返してもAIプログラム化できない領域であり[創造]の世界である。

哲学の導入

原語であるギリシア語の philosophiaは知を愛することを意味する。哲学という訳語は西周による (1874) 。愛知としての哲学はもろもろの学問のなかの一つではなく,人間の知識欲に根ざす根源的活動の一つだが,中世では神学,現代では科学との関係が問題となっている。古代から近世まで哲学は形而上学のほかに自然学 (→自然哲学 ) を含んでいたが,19世紀からの自然科学の急速な発展によって後者は哲学から独立し,哲学をおもに認識論,倫理学,美学の三者で構成する立場が生れた。現代では厳密さを求めて哲学自体を科学化しようとする傾向さえ一部にある。かつて非神学的を意味した哲学的という形容詞は現代ではしばしば非自然科学的,思弁的の意味で用いられている。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典についてより

哲学は巷にあふれる経営指南書や哲学の解説本を読んですぐに導入できるものではない。プラトンやカント、近代では東洋の鈴木大拙や西田幾多郎といった哲学者の本を読むだけでは無理である。哲学は実践し常に考え訂正と補完を繰り返すことで形作られていく。もちろん偉大な哲学者の書いた本を読まないという選択肢はなく、読みながら同じように考え訂正し補完する。こうした作業を繰り返すことで組織には文化や伝統が生まれる。老舗が強いと言われるゆえんの正体はここにあり、歴代の経営者が悩みながら培ってきたものが少なからず息づいている。たとえ形骸化してしまっている文化であっても、その輪郭からふたたび組み立て直すことは不可能ではなく、むしろ昭和に入ってから立ち上がった企業組織にとってみれば、再考するきっかけになるだろう。

哲学を導入すると言っても具体的にどうすればよいのか、前記ではわかりにくが、とどのつまり[明文化すること]である。

どの哲学者の本を読んでも[明文化]を実践している。[言葉]へ置き換えることによって論理的に理解しようとする作業の表れである。そのため一つ一つの言葉に対するイメージや身体的な影響、その言葉から生まれる行動が関連するさまざまな環境にどのような影響を与えるのか[知識]として知る必要がある。安易な言葉を使うことへの影響を常に考慮し、歴史に目を向けることで過去に何が起こったのか知ることもできる現代において、知る環境を使わない手はない。大切なことは[考えること]であって、知ることは考えることへの[材料]でしかないということを認識することだ。

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