デザインを考える上でも重要な茶の湯の歴史をアバウトに振り返っておきます

おそらく、立ち上げの時くらいしか書けない『茶道の歴史』についてざっくりまとめておこうと思います。何事にも『流れ』は大切ですし、茶道はデザインやものづくりにも影響が出てくること。『日本でデザイン』を考える上で知らないより知っていたほうが思考に深みが出ます。

茶の湯の歴史といえば「岡倉天心」

岡倉天心といえばフェノロサとともに全国を歩き回り、西洋の美術にも負けない日本美術を発掘・調査して、海外へ紹介した美術史家。芸大・美大に行けばほぼ間違いなく学舎内で銅像と出会うことができ、一回は写真のお供になっている芸・美大生にはわりと身近な存在です。そんな岡倉天心は、1906(明治39)年にニューヨークのフォックス・ダフィールド社から『The Book of Tea(茶の本)』という『茶道を通した日本文化の紹介本』を出版しており、その本のおかげで海外では日本文化への理解が進んだというのは有名なお話。古刹の仏像や浮世絵などを今でも当たり前のように見ることができるのは岡倉天心の偉業のおかげです。もっといえば、iMacやiPhoneを生み出したスティーブ・ジョブズ氏やマイクロソフト創設者のビル・ゲイツ氏が日本文化に興味を持ったきっかけを作ったと思っても過言ではないかもしれません。Amazonでは村岡博訳の「茶の本」がKindleだと無料で読めますので、一度目を通しておくと良いと思います。

ここでなぜ岡倉天心なのか?

明治に出版された件の『The Book of Tea』の内容、実はほぼそのまま今の茶道の歴史みたいに思われ続けているのです。そして「茶道って禅のことだよね?」と茶道と関わりの少ない人やインバウンド旅行者の多くは思っています。それが元で間違った解釈のデザインにつながっていることも少なくないようで、似非日本文化デザインがはびこってしまっているのも気になるところです。

岡倉天心の偉業は偉業として、明治に今ほど検証がなされていなかった茶道史であるにもかかわらず、現代までこうした情報が上書きされず生きてきた現状を考えると、岡倉天心以降日本文化を茶道になぞって検証し直し、発信し直した事例は少なかったか、情報の結びつきが弱かったのかもしれません。そういうこともあって、今まで「これって日本だね!」と思われていたデザインなどをほんの少しだけ考え直すきっかけになればと思って、このマガジンを立ち上げた次第です。

茶の湯は『禅』と直接的な関係はない

枯山水と茶道は直接関連がありませんし、枯山水と侘も直接関連はなくなります。このつながりのイメージでデザインされたもの、いくつかあるのではないでしょうか?

よく『茶道』とも言われますが、これはかなり近代になって千家が家元制となってからの呼び名で、『千利休』が生きていた時代は『茶の湯』と呼ばれるのが一般的でした。また『茶の湯』以前にも茶を飲む習慣はすでに伝来しており、諸説あるものの筆者は今のところ奈良時代(西暦778年)茶木伝来説が信頼性が高そうなので、奈良時代で押したいと思います。唐風文化の時代、茶の精製法や飲用方法が大陸との交流(教科書でも有名な遣唐使)によってもたらされて、現代の抹茶に近い飲用法で飲んでいたというのもポイントが高いです。

一方『禅宗』の普及は一般に鎌倉時代(西暦1300年台)と言われていますが、主に武家を中心に広まったということを忘れてはいけません。そして『茶の湯』の定義を整理しておかないと『禅と茶の湯』の分離が難しくなります。

茶の湯とは、

  1. 喫茶を中心とする寄り合い形式
  2. 寄り合いが行われる座敷内に釜などの茶道具が置かれ、その場(客前)で点前が行われる

この2つの条件が揃ったときです。岡倉天心が『The Book of Tea』内で

『ただ 一個の碗から聖餐のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して15 世紀における日本の茶の湯となった。(村岡博訳/茶の本より引用)』

と書いているのですが、これは禅院茶礼のことではないかと思います。また岡倉天心は現在の福井県の出身で、地元永平寺押しだった可能性も捨てきれません。禅院茶礼では寄り合いの場で茶を点てることはしませんので、『2』の条件が満たされないのです。(四頭茶会が参考です)

ということでここで茶の湯と関連があるとうかがわせる最初の史料の登場です。西暦1484年に法華宗(日蓮宗)の日親が定めた『本法寺法式』の中の一節に『茶湯』という表現が見つかっています。せっかくなので引用しておきます。

  『一、 凡夫の習、自然の過失あって御ふしらむをかふらむ時、訴訟間自坊に蟄居仕らば、侘事のために一人とは自然の参会を仕へし、其の外は二人三人共寄合、茶湯等賞玩の儀あるへからす候上は、他坊へ立いり、檀方へ不可出入候』

要約すると、『なにか問題を起こしたお坊さんが謹慎してるときに、2人3人集まってで茶の湯を開いたらダメですよ』と書いてあり、注目すべしは『茶湯』という言葉が出ていることと、『法華宗(日蓮宗)』のお坊さんが書いていることなのです。禅宗ではありません

一方このころ、京都で法華宗徒の豪商が茶の湯の中心的な存在となって、信長の時代(西暦1500年台)まで続いています。信長マニアの方なら『不住庵梅雪』という名前、茶道を知っている人なら『辻玄哉』という名前をご存知かと思います。この人達も京都法華宗徒の豪商の一人でした。

茶木の伝来からおよそ700年以上、途中応仁の乱を挟んで、茶の湯は京都の豪商の間で広まり、『侘数寄』と呼ばれる言葉もこの頃から使われ始めています。注目するところは『京都の豪商』と『法華宗』と『侘数寄』。なぜ岡倉天心が禅宗と結びつけたかですが、先にも書いてますが、岡倉天心は武家+福井県の出身だからだと考えられます。(武家政権と禅宗参照

また茶の湯といえば千利休ですが、『千』は屋号の『千家』のこと。出自は堺の小商人だったことが知られています。武家ではないですね。当時商売に成功した『千家』は豪商になっていくのですが、千家もまた法華宗徒だった可能性も高く、現代でも千家と関係の深い家系は法華宗だそうで、記録(写経や法華宗史料)が残っています。

お気づきかと思いますが、「ここまで茶の湯に禅宗絡んでない」という史実。もう一つ大切なことですが、法華宗が茶の湯を組み立てたわけでもありません

最後に『侘数寄』ですが、わざわざ言葉として分けて使われたことを考えれば、豪商の茶の湯とは別系統で『侘数寄』が存在していたのでしょう。このあたりも禅と茶の湯が一体のように思われる要素であるといえます。

しつこいようですが、岡倉天心が書き記した『15世紀に茶の湯ができた』と書いた時代、京都豪商の茶の湯で中心的な存在だった辻玄哉、江村栄紀、池上如慶、大文字屋栄清、不住庵梅雪、本阿弥家、茶屋家、後藤家は法華宗徒だったことがわかっています。とはいえ法華宗が茶の湯に影響したわけでもありません。大事なことなので二回書きました。

茶の湯≠禅』であって、茶室の庭園には枯山水は必要無く、茶の湯は茶の湯です。何かの機会にデザインを考えるとき、または新しい日本文化に関するサービスを組み立てるときに気をつけなければいけません。